あいたい、と率直な言葉が電波に乗って耳朶を擽る。いつだってしっかりしている松川の珍しい甘えがうれしくて、考えるより先に了承の言葉を口にしていた。私の返事を聞いた彼は本当にいいのかと動揺を多分に含んだ声を上げる。それにまた一つ返事を返せば、すぐに行くから待っててと喜色満面の言葉を残して通話を終えたのが少し前のこと。
部屋の中を見渡して、出しっぱなしにしていた雑誌を慌てて片付ける。飲んできているというし、水でも用意しておいた方がいいだろうかとキッチンへ足を向けたところで、ピンポンとチャイムが鳴った。
「いらっしゃい、早かったね」
「…タクシー乗ったから」
早く会いたくて、と続ける松川の顔色は普段と変わりないが、今日もずいぶんと酔っているようだ。付き合おうと提案された時もいつもと変わらない飄々とした顔をしていたけれど、あの時もきっと酔っていたのだろうなぁと思い返しながら彼を招き入れた。靴を脱ぐ彼に背を向けてリビングへ向かおうとしたのだが、後ろから腕を引かれて足が止まる。どうしたのかと振り向けば、顔がなにかにぶつかった。鼻先から居酒屋特有の煙と油の匂いが漂ってきて、一拍遅れて松川に抱き締められているのだということに思い至り、どくどくと心臓が忙しなく動き出す。旋毛の天辺あたりに顔を押し当てて呼吸をする彼の息遣いが静かに聞こえた。
「、キスしていい?」
じっとこちらを見下ろす瞳は熱に浮かされた色をしていて、見つめあったまま動けないでいる私の返事を待たずにその唇が迫る。視線の熱量から逃げようと瞼を伏せたが、触れた唇から伝わる熱さに逆上せそうだ。軽く触れて離れた気配に、そっと閉ざしていた瞳を開けば、相変わらず熱い眼差しに一歩後ずさる。これはいけないと、松川の胸を押して離れようとするが、指先を絡め取られてその腕の中に逆戻りした。
「ま、松川酔いすぎだよ。水飲む?」
「…今日泊めてもらってもいい?」
「いいけど…って、わっ!ちょっと待って!」
返事を聞くや否や、いきなり抱きかかえられて慌てて彼の首に縋りつく。迷いのない足取りで寝室へと連れて行かれベッドに下ろされた。身を起こそうと試みたが、すぐに松川が上に覆い被さってきたため叶わず、至近距離からまた、あの熱っぽい目に射抜かれる。
「まつか、」
再び唇を覆われて、呼ぼうとした名前は口内に押し込まれる。漂うアルコールの匂いに私まで酔ってしまいそうだ。
「好きだ」
至近距離で放たれた告白に、キスの余韻で苦しい呼吸に追い打ちをかけられる。迫る瞳の熱量と、その奥にチラつく悲痛な色に体が震えた。
「好き。のことずっと、ずっと好きだった」
寄せられる熱情に返せる気持ちを、私は持ち合わせていなかった。松川のことは好きだけど、彼と私の好きはイコールではなく、その温度には歴然とした差があった。今の私じゃこの抱擁に応えるには役不足なのに、痛いくらいに抱き締めてくる腕を拒むことはできなかった。
結局、そのまま松川は力尽きたように眠りに落ち、非常に落ち着かない状態であったものの、気がつけば私も眠っていた。目覚めた時も私の腰には松川の腕がしっかりと回されていて、身じろぎひとつ叶わない有様。かといって、寝息を立てている彼を起こすのも忍びなくて、とくとくと規則正しく鼓動する音に耳をすませていた。
それから程なくして小さく唸り声を上げて目を覚ました松川はぼんやりとした表情で私を数秒見つめた後、慌てたように身を起こした。
「…?え、俺なんで…」
まさか昨晩のことを覚えていないのかとも思ったが、思い出すような数瞬の間の後、顔を青くしたかと思うと、がばりと頭を下げられた。
「ごめん!俺、すごい酔ってて、勢いでキスとかしちゃって本当に申し訳ない!」
「大丈夫だから気にしないで」
頭を上げるように促し、そろりと顔を上げた松川の表情は居た堪れないといった様子でいっぱいだった。ぎこちない雰囲気のまま、身支度を整えた彼は最後まで申し訳なさそうな表情を崩さないまま、帰っていった。
あれから数週間が経つが、それまで数日おきには送られてきていた松川からの連絡は見事に途絶えた。あの日の様子から鑑みても、後悔しているのは想像に難くない。
松川のことだから、きっと私の気持ちがまだはっきりしていない内に手を出すことをよしとしないのだろうと思う。アルコールで理性が薄れていたとはいえ、あのような形で迫ってしまったことは不本意だったのだろう。
どうすればいいんだろう。なんとなくもう松川は自分から連絡を寄越すことはないようにも思える。とはいえ、私の気持ちは相変わらず固まっていない。松川のことは好きだけど、異性として意識したことはこれまで一度もなかった。
『好き』
あの日、切実な声音で囁かれた睦言が、瞳の奥に揺らめいていた熱情の色が、脳裏にこびりついて離れない。思い出すたびに体の奥に灯る感情は恋なのか、長年の付き合いからくる情なのか、まだ答えは出ない。今わかっていることは、松川に会えなくてさびしいと感じていることだけ。会いたいという欲望に突き動かされて、指はラインから彼の名前を選び出していた。
180831