「それで“まずは恋人から”って?」
くっくっと楽しげな笑みを浮かべる花巻の視線を避けるように手の中で玩んでいたカップに目を落とした。松川の突然のプロポーズから数週間。近況報告がてら花巻とカフェでお茶をしていた。
「んで、せっかくの休日だってのに肝心の松川は何してんの?」
「今日は休日出勤なんだって。…一応この後、会う約束してる」
「おアツイことで」
我がことのように喜色満面の花巻とは対照的に私の顔は浮かない。思わず漏れ出たため息に彼はそれまでニヤニヤと浮かべていた笑みを引っ込めた。
「…あんま気乗りしない感じ?」
「そういうんじゃないけどさ。なんかいきなりすぎてついていけなくて」
「まあ、長いこと友達やってたもんなァ」
しみじみとした呟きに、一体いつから松川は私のことを想ってくれていたのかと気になっていた疑問を問いかける。俺の知ってる限りだと、と前置きした上で、ラテを啜りながら花巻は左斜め上に視線を向けた。
「、大学の三年くらいん時に付き合ってたやつのこと、松川に相談してたろ。別れればいいのにってよく漏らしてた」
「え、そんな前からなの?」
松川や花巻とは高校からの付き合いだが、高校生の頃は顔見知り程度で、仲良くなったのは大学生になってからだ。たまたま同じ大学に進学したことでよく話すようになり、大学時代のほとんどを共に過ごしたといっても過言ではない。思い返してみれば、確かに大学時代の後半くらいから松川には彼女がいなかったような気もする。それがまさか自分のことを想っていてくれたからだなんてまったく思いもよらなかった。
なんだか気恥ずかしいような、照れくさいようなむず痒い気持ちに襲われていると、ぶるりとテーブルに置いていたスマートフォンが揺れる。通知領域に現れた名前に、どきりと心臓がポップアップしたのは先ほどまでの話題のせいだ。
「松川?」
「うん、仕事終わって今から会社出るって」
「じゃあそろそろ行くかー」
今いる店は松川の会社の最寄駅から程近いので、飲み終わった容器を捨てて連れ立って店を出る。また進展聞かせろよという彼に曖昧な笑みを返し、これから付き合っている彼女の家に行くという花巻とは改札口で別れた。
「ごめん、待たせた」
「そんな待ってないから大丈夫。お疲れさま」
程なくして姿を見せた松川は急いできたのか、私の姿を見つけると足早に駆け寄って来てくれる。鞄から取り出したパスケースをかざし、改札をくぐる彼の後ろについて歩く。乗り場へ向かう階段を下りながら、今日どうする?とこちらを振り仰ぐ彼のネクタイの結び目辺りを見つめながら、意を決して口を開いた。
「あのさ、よかったらなんだけど…うち来ない?」
「えっ、」
「松川、仕事で疲れてるだろうし、今日土曜だからお店混んでるだろうし、家の方がゆっくりできるかなって思って」
実はもう晩ごはんの支度もしてきているのだと言い訳がましく言葉を並べ立てれば、松川は驚いたような顔からじわじわとその頬をほころばせた。
「じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな。お邪魔していい?」
「うん、ぜひどうぞ」
ひどく嬉しそうな様子に、なんだか恥ずかしくなってくる。別にそんな特別きれいな家でもないし、手早く作れるからと鍋の準備をしてきているだけだ。大したふるまいではないと告げるも、松川はそんなことはないとふわりと笑った。
「お邪魔します」
「…どうぞ。広くないし、一応片付けたんだけど、なんかごちゃごちゃしててごめん」
「いや、もうの家に呼んでもらえただけで十分満足だから」
さらりとそんなことを言いながら、リビングへ歩いていく松川は心臓に悪い。そんなにも嬉しそうにされるといたたまれないというか、気恥ずかしいというか。またもや羞恥に襲われていると、の匂いがする、なんてことを漏らすものだから、私の心臓が根をあげるのも時間の問題かもしれない。
出かける前に具材の下ごしらえは済ませてあったから、土鍋を出して、カセットコンロをセットして、お椀やお箸を出してセッティングを済ませればあっという間に準備は完了した。ガスコンロで沸騰するまで温めた鍋をコンロへ移動させる。蓋を空ければ、ぐつぐつと煮える音ともに、胃袋をくすぐる匂いが立ち込めた。帰宅前に買い込んだビールのブルタブを引いて乾杯してから鍋に箸を伸ばした。
「はーおなかいっぱい」
〆の雑炊を平らげた松川は大きく腕を伸ばしソファの背に凭れかかる。顔色は普段とまったく変わらないが、さっきからその頬はふにゃふにゃと緩んでいて、どうやらだいぶ酔っ払っているようだ。トイレを借りていいかと立ち上がった彼に場所を教えると、ゆったりした足取りで出て行った。その間に片付けてしまおうと食器を重ねていると、ごん!と鈍い音がして慌てて音のした方を見やれば、額を押さえて松川がうずくまっていた。
「すごい音したけど大丈夫…?」
「…大丈夫、だいじょうぶ」
おそらく鴨居に頭をぶつけたのだろう。こちらを振り返った松川の額は赤くなっていた。ゆっくりと今度は慎重に立ち上がり、頭を下げて敷居をくぐり廊下へ出て行く背中を見送る。
しばらくして水の流れる音がした後にドアが開き、松川が顔を覗かせる。また頭をぶつけないようにと、恐る恐るドアの下をくぐり抜ける様子がおかしい。どさりとソファに腰かけた彼はぐったりと身を投げ出している。先ほどドアに頭をぶつけたことといい、相当酔いが回っていることが察せられた。
「今日泊まってく?」
「…いや、帰る」
身を起こそうとした彼は、しかしすぐにふらりとソファに身を沈めた。
「大丈夫?」
「あーうん、ちょっと目回った…」
額を押さえて項垂れる彼はやはり調子がよくないようだ。酔いが回っているのならなおさら無理に帰るべきではないだろう。なんとか説得し、しぶしぶながらもソファに横たわらせる。本当はベッドで休んでほしかったのだが、それは頑として首を縦に振らなかった。
「部屋んなか、の匂いしてやばいのに、ベッドなんて借りたら俺しんじゃう」
腕を額に乗せて目を覆ったまま、ぼそぼそとした小さな声でそんなことを零す松川は相当きているようだった。寝室から持ってきた毛布をかけてやれば、鼻先まで顔を埋めて「これもの匂いする」とまた困ったように眉を下げる彼は心底参っているらしかった。
180521