「あらちゃん!」

道を歩いているとかけられた声に振り向けば、一静くんのお母さんがいて驚きに目を見開いた。今日は一静くんの部活が午前中までだから、午後からお家にお邪魔する約束をしていて、駅前の洋菓子店で手土産を購入し、これから向かおうとしていたところだったのだ。

「用事があって駅前まで来てて、これから帰るところなのよ。ちょうどいいから乗っていきなさい」

有無を言わさず車に乗せられ、あっという間に松川家に到着した。さあどうぞと促され、リビングに通され、緊張しながら勧められるままにソファに腰を落ち着ける。この家にはすでに何度かお邪魔をしているものの、いつも一静くんが一緒で、彼がいない時にお家に上がるのは初めてだった。お茶を出してくれた一静くんのお母さんがもうすぐ帰ってくると思うんだけど、と話していると玄関の方からただいまと、一静くんの声が聞こえてくる。
リビングに顔を出した彼は、私の存在に気がつくと少し目を瞠った後、来てたんだ、とぽつりと溢しそのまま二階へ上がって行った。おそらく自室へ荷物を置きに行ったのだろう。程なくして階段を下りてきた彼は、そのままリビングを素通りして、洗面所に向かったきり戻ってこない。Tシャツとかタオルとか洗濯機に入れておいてね~とお母さんが声をかけているところを見るに、そのままお風呂に入るようだった。

「私これからちょっと用事でまた出かけきゃいけなくて、お構いできなくてごめんなさいね」
「あ、いえ、そんな!お茶ごちそう様でした!」
「ゆっくりしていってね」

台所で何か作業をしていたと思った彼女は、いつのまにやら出かける支度を整えていたようで、ひらひらと手を振って出かけていった。残された私は手持ち無沙汰にリビングにかけられた時計をぼんやりと眺める。かちこち、としんと静まり返った部屋の中に、秒針の動く音が響いている。
…一静くんお風呂長いな。部活終わりで疲れてるだろうしゆっくりしてるのかな。考えながら、ふと先ほど、彼が口にした言葉がリフレインする。前々から約束をしていたはずなのに、私がこの家にいることに驚いたような様子だったのはなぜだろうか。もしかして約束の日を間違えていた?疲れているのに会いに来たのが実は迷惑だった?気になりだすとどうにも止まらなくなってくる。慣れない場所に一人でいることの落ち着かなさも相まって、思考はますますマイナスの方向へ転がり落ちていく。
やっぱり来ない方がよかったのかもしれない。うんきっとそうだ。今のうちに帰ろう。ぐるぐると考え込んだまま、立ち上がり玄関へ向かおうとリビングから足を踏み出したタイミングで名前を呼ばれた。

「何やってんの」
「あ、えと、その…」

お風呂から上がった一静くんが髪をタオルで拭きながら歩み寄ってくる。言いあぐねているうちに、距離を縮めた彼が目の前に立ちはだかる。

「トイレ?場所わかんなかった?」
「ううん、そうじゃないんだけど」

何を答えればいいのか。言葉を探してパニックに陥った頭はオーバーヒートして、涙が溢れてくる。突然泣き出した私に一静くんはぎょっとした顔をして慌てて手を伸ばしてくる。

「ちょっ、なにどしたの?」

ぐすぐすと嗚咽を漏らすばかりで、まともに答えられない私を心底困ったような顔で見つめる彼に、どんどんと申し訳なさが募っていく。

「ごめ、なさっ」
「何に謝ってんの。別になんも悪いことしてないでしょうよ」

涙を拭っている私の手をやんわりと制して、首に掛けたタオルで優しく目元を押さえて、反対の手であやすように頭を撫でてくれている。

「…落ち着いた?」
「うん、突然ごめんなさい」

ほっとした顔をした彼に促されてリビングに戻り、ソファに並んで腰掛ける。

「何があったか聞いても大丈夫?」

促されて、言葉を選びながらぽつりぽつり口を開く。一静くんが帰ってきた時に漏らした言葉に引っかかったこと、お風呂が長引いていて疲れているんじゃないか、来たことが迷惑だったんじゃないか、そう思って帰ろうとしていたことを告げると、彼は苦い表情を浮かべていた。

「あーいや、もう家に着いてると思わなくてビックリしただけなんだけど、なんかごめん。あと風呂は浸かりながら普通に寝てた」
「…やっぱり疲れてるんじゃ、」
「大丈夫だから。に来てほしくて俺が呼んだんだし、帰んないで」

でないと俺一人になっちゃう、と眉を下げて困ったように笑って見せる一静くんにわかったと頷けば、ほっとしたように表情を緩めた。

「腹減ったからメシ食お。も食べる?」
「お昼ご飯食べてきたから大丈夫」
「じゃあ髪乾かして」

珍しく甘えて見せる彼に驚きながらも了承すれば、嬉しげに頬を緩める。ドライヤー取ってくるからメシあっためておいて、と言われて、冷蔵庫からラップのかかったお皿を取り出して電子レンジにかける。ほどなくして戻ってきた彼は、温まった料理をテーブルに運んで食べ始めた。その後ろに回り、髪に手を伸ばす。

「髪の毛入っちゃわない?」
「大丈夫。優しくしてね」

おどけて見せる一静くんに笑い返して、カチリとドライヤーのスイッチを入れ、温風を髪に当てていく。粗方水分を飛ばし切り、ふわふわと彼のくせっ毛がいつものやわらかさを取り戻した頃合いで、ちょうど一静くんも食事を終えたようだった。

「ありがと。ドライヤー片付けとくし、先に俺の部屋上がってて」

促されるままに二階へ上がり、まだ数回しか来たことのない彼の部屋へ足を踏み入れる。

「なーにしてんの」

所在なく立ち尽くしていた私を笑って、手を引かれてベットに寝転がる。向かい合って顔を見合わせて、彼の長い足が私のそれを絡め取った。

「お腹いっぱいで満足…」
「一静くん眠そう。寝る?」
「んーそうしようかな。も一緒に寝よ」
「うん」

とろとろと微睡み始めている彼の胸に顔を埋めて小さく謝罪する。

「…泣いちゃってごめんなさい」
「俺の方こそ、不安にさせちゃってごめんね」

ぽんぽんと柔らかに背中を叩いた後、ぎゅっと抱きしめてくれる腕に応えるように、背中に腕を回して抱きしめ返す。とくとくと、互いの鼓動の音が耳に響いて、触れ合う体温の心地よさにゆっくりと意識を手放していった。



180717