どうして今年の三月一日は平日なのだろうか。
恨みがましくスマートフォンのカレンダーアプリの画面を見つめてため息をついた。先日の日曜に卒業式を終えて、三年生の抜けた校内は少しだけ静かな気がする。どことなくもの寂しさが感じられて、もう校舎のどこを探しても彼はいないのだと嫌でも思い知らされる。

中学までと違って高校の卒業式に在校生は出席しない。生徒会役員と、部活動の先輩を見送るために登校している生徒はいるが、ほんの一部だ。生徒会にも部活動にも入っていない私が卒業式に行く理由はなかったのだが、及川先輩の熱烈なファンである友人に連れられて、式が終わる少し前の時間に登校した。
さすがに三年生の教室がある階に踏み込んでいくだけの勇気はなかったので、私たちは昇降口で卒業生を待っていた。ぞろぞろと降りてきた先輩たちの中に及川先輩を見つけると、友人は足早に駆け出して行った。何ごとかを話して持ってきていた花束を手渡すと、及川先輩の顔がほころぶ。ありがとう、とその口が動いているのが少し離れたここからでもわかった。一緒に写真を撮ってもらってからにこにこと頬を緩ませて返ってきた友人は「はいいの?」と尋ねてくる。主語の抜けたその言葉を補うと「は松川先輩を探さなくていいの?」だ。

私と松川先輩は、委員会が一緒で少し仲良くしてもらっていた、それだけの間柄だ。元々卒業式に行く予定はなかったし、委員会が一緒だっただけの私が先輩に会いにいく口実を思いつくことが出来ない。直接お祝いの言葉を告げたい気持ちはあるけれど、踏ん切りがつかなくて、私は曖昧な笑みを返して友人と学校を後にした。
本当は廊下の端で、先輩を見かけていた。人ごみをかき分けて、追いかけるだけの勇気を持ち合わせていない私は寒さで冷たくなった指をぎゅっと握りしめて、大きな背中が遠ざかっていくのを見送るしかできなかった。

あれから数日が経ち、日ごとに増していく後悔に苛まれている。
ちらりとグラウンドに視線を向ければ、他のクラスが体育の授業をしているようで、緑の体操着の生徒たちがトラックを走っている。少し前までたまに見かけた臙脂色はもう見えない。もう一度ため息をついたタイミングで、マナーモードにしていたスマートフォンが揺れる。タップして画面を開ければ、そこには表示されていたのは今私の頭の中を占領している人の名前だった。

『昼飯一緒に食わない?』

質問の意図が見えず首を傾げる。今は四時間目の授業時間中だが、自習になったためクラスメイトのほとんどがおしゃべりに興じている。

『松川先輩、学校来てるんですか』
『図書室で勉強してる。昼飯食うやついないから一緒してくれると助かるんだけど』

まさか彼が学校に来ているなんて夢にも思わず、しかもお昼に誘ってもらえるなんて。思いもよらない展開に震える指先を画面に滑らせた。

『今自習中なので、すぐ行きます!!』

メッセージを送信してすぐに椅子から立ち上がると、離れた席で男子と話をしている友人に声をかけてから教室を飛び出した。




一応授業中なので、足音を立てないように気を付けながら足早に廊下を進む。逸る気持ちを抑えるように深呼吸をしてから扉を開いて中に入り、先輩の姿を探せば窓際の席にその姿はあった。

「松川先輩」
「早かったな。走って来たのか?」
「早歩きで来ました」

私の返答が面白かったらしく、口角を緩めた彼に促されて図書室を後にする。

「先輩、国立受験でしたっけ」
「うん。前期がこの間終わって今結果待ち。後期もあるからまだ勉強しなきゃなんだよ」

ややうんざりとした様子の彼を労いながら学食へ向かう。

、卒業式の日って学校来てた?」
「え?」
「及川がの友達と写真撮ったって言ってたから、一緒に来てたのかなと」
「あ、はい。どうしてもってお願いされたので来てました」

私の返答にそっか、と漏らした先輩が何を思ったのかはわからない。もしかして会いたいと思っていてくれたのだろうか、なんて都合のいいことを考えかけたが、それはないだろうと頭を振って否定する。お昼休みより少し早い時間だから人がおらず、空いているカウンターに並び注文を済ませる。お会計をしようと財布を取り出した先輩を制して財布を開いた。

「あの!松川先輩今日誕生日ですよね。おごります」
「え、いや、いいよ。悪いし」

固辞する先輩としばらく押し問答が続いたが、「年下の、しかも女の子におごられるのは申し訳ないから勘弁して」と困ったように眉尻を下げて言われてしまって諦めた。せっかくお祝いできると思ったのにと肩を落とした私を見かねた先輩が声をかけてくれる。

「気持ちだけで十分だから、そんな気にするなよ」
「だって、私がお祝いにできることなんてないですし」

唇を尖らせながら、日替わり定食の副菜のお浸しを口に運ぶ。そんな私をしばらく見つめていた先輩は、ハンバーグ定食を食べていた手を止めて、じゃあと口を開いた。

「俺来週もまた学校来るし、その時にお祝いしてよ」
「合格発表の日ですか?」
「うん、そう。それで合格してたら、聞いてほしい話がある」

真剣な眼差しに食事をしていた手を止めて、先輩の顔を見つめ返す。いつも何を考えているのかわからない瞳の奥に、ゆらりと熱いなにかが揺らめいている気がしたのは気のせいだろうか。

「わかりました。それまでにプレゼント用意しておきますね!」
「そんな気負わなくていいよ。でも楽しみにしておくな。ありがとう」

嬉しそうに頬を緩めた先輩が食事を再開したのに、倣って私も箸を動かす。もぐもぐと咀嚼して飲み込んでから、あ、と気がついた。

「松川先輩、お誕生日おめでとうございます」
「ありがと」





それから五日が経った、三月六日。今日は国立大学の前期試験の合格発表の日だ。発表は正午だから、先輩が学校に来るのは放課後になるという。職員室で担任の教師に報告をして、不合格で後期試験を受ける場合は、その相談をするから遅くなるかもしれないとも言っていた。終わったら連絡すると言われていた私は、教室で先輩から連絡が来るのを待っていた。

『終わった。今どこ?』
『教室です』
『すぐ行くから待ってて』

了承のスタンプを返してから、スマートフォンの画面を落としてブレザーのポケットにしまった。机の横に掛けてある紙袋を取って机の上に置く。今週末街に出かけて、悩みに悩んでシンプルな定期入れを買った。先輩は気負わなくていいと言っていたけれど、誕生日と卒業のお祝いを兼ねてと、少し奮発をした。使ってもらえるといいなと、お店のロゴの入った紙袋の表面を指でなぞる。

「ごめん、待たせた」
「お疲れさまです。どうでしたか?」

急いできてくれたのか、やや息の上がっている先輩は私の隣の席の椅子を引いて腰を落ち着けた。

「無事合格しました」
「おめでとうございます!」

ありがとうと照れくさそうに笑った先輩に、もう一度お祝いの言葉を告げて紙袋を手渡す。

「ありがとう。開けてもいいか」
「はい、どうぞ」

ドキドキと忙しない鼓動を落ち着けるように、手を握り締めながら紙袋から箱を取り出して丁寧に包装を開く先輩を見守る。

「お、定期入れか、ありがとう。大事に使わせてもらう」

頬を綻ばせて、嬉しそうに笑った先輩は大事そうに箱を紙袋にしまって、私に向き直ると居ずまいを正す。

「話したいことがあるって言ってたやつなんだけど」
「はい」
「ずっと好きだった。俺と付き合ってくれないか」
「う、そ」
「嘘じゃねえよ」

卒業式に私が来ているとは思っていなかった先輩は、後から私が来ていたことを知って校内を探してくれたらしい。私がすぐ帰ってしまったせいで会えなかったので、たまたま用事があって登校したあの日、今日の約束を取り付けるため昼食に誘ったのだという。

「学年違うし、委員会でたまにしか顔合わせらんないけど、ずっと気になってたんだ」
「私も、松川先輩のこと、ずっと好きでしたっ」
「じゃあ、俺と付き合ってくれるな?」

驚きと嬉しさとが綯い交ぜになって目頭が熱い。ぽろりと零れ落ちた涙を、先輩の大きな指が拭ってくれる。首を振って頷けば、腕を引いて抱き締めてくるから涙はいよいよ止まらなかった。



HappyBirthday Issei Matsukawa!!
160301執筆
180421加筆修正・掲載