ピンポン、と控えめに鳴らされたチャイムの音に足早に玄関に向かう。鍵を捻って鉄扉を押し開ければ、鼻を赤くした彼女が所在なさげに立っていた。

「おかえり。遅かったな」
「ごめんなさい、こんな時間に」
「気にするな。ほら疲れてるだろ、風呂沸かしてあるから入ってこい」

肩に背負った重たいカバンを取り上げて腕を引いて促せば、よたよたとした足取りでヒールを脱いで洗面所に入っていくのを見届けてリビングへ戻った。前に泊まりに来た時に置いていった着替えを脱衣所に用意してあるから、化粧を落としたらそのまま風呂に入るだろう。
これからそっち行ってもいいですか、と彼女から連絡が来たのは、帰宅し食事や風呂を終えて一息ついたタイミングだった。まさかこんな時間まで残って仕事をしていたのか、と驚きつつ了承の返事を送れば、ありがとう。いきなりでごめんなさい、と申し訳なさを前面に押し出した彼女に、遅いし迎えに行こうかと提案するが、駅から月島さんの家までそんなに距離ないし大丈夫と固辞され、気を付けて帰って来いよ、とラインを送ったのが、少し前のことだった。
しばらくして風呂場から音がしないので心配して風呂場の外から呼び掛ければ、案の定湯船に浸かりながら寝落ちしていたようで、ざばっと大きく水が跳ねる音が聞こえて来る。メシ用意しておくからな、と声をかけてから台所へ戻り、作っておいた夕飯を温め始める。食卓に並び終えた頃合いで、ちょうど風呂から上がってきた彼女が、お風呂ありがとう、と控えめにお礼を告げる。お湯に浸かって暖まったからか、帰宅した直後より顔色は随分と良くなっていた。席についた彼女が箸を取りゆっくりとしたペースで食事を始めたのを見て、洗面所からドライヤーを持ってきて髪を乾かしてやる。あらかた乾かし終えてコードを束ねていると、こちらを振り仰いだ彼女が、またありがとうと頬を緩める。

「ごちそうさまでした」

手を合わせた彼女は、きれいに完食しており、食欲はあるようだと胸を撫で下ろす。忙しい時に食欲も減退しだすと、そこから体調を崩すのは自分も経験がある。

「片付けておくから歯みがいてこい」
「うん、ありがとう」

先ほどからお礼を繰り返してばかりの彼女の頭をひと撫でして、洗面所に向かう背中を見送る。
今日は平日の中日で明日もまた仕事だ。彼女の部署は今繁忙期真っ只中で、少し前にしばらく会えなくなると思うと予告されたとおり、プライベートで顔を合わせるのは久しぶりのことだった。こちらとしては、遠慮せずにもっと頼ってくれていいと思っているのだが、生真面目で甘え下手な彼女にそれを言ったところで困らせてしまうのは目に見えていた。いっそのこともう一緒に暮らしてしまえばいいのではと思い至り、落ち着いた頃に提案してみるかと頭の中に留め置いたところで、寝支度を終えて戻ってきた彼女の手を引いて寝室へ促した。
ベッドに身を横たえた彼女の隣に入り、体を抱き寄せれば胸元に顔を埋めて、ほっとしたように小さく息を吐いている。腰に手を回すと、やや骨張った感触がして前はもう少しふっくらとしていたのにと、眉間に皺が寄る。忙しいのがひと段落したら旨いものを食べに連れて行ってやらねば、とまた頭の中に書き足す。

「月島さん、今日はありがとうございました」
「ああ」
「忙しいの平気なつもりだったんだけど、今日、ちょっとしんどくて。月島さんに会いたいなって思ったら、我慢できなくなっちゃって」

ごめんなさい、と弱々しく、くぐもった声が胸元から聞こえてきて、ぽんぽんとあやすように小さな背中をできるだけ優しく叩く。今日の彼女はずっと謝り通しだ。しんどい時は誰だってあるし、人に頼りたくなる時もあるだろう。ましてや俺は恋人なのだ。弱音や愚痴を吐いたり、甘えてくれてぜんぜん構わないというのに。

「謝らなくていい。お前は普段ほとんど甘えないんだから、こういう時くらい甘えていいんだぞ」
「うん」

小さくか細い返事は、まだ不安の色を多分に含んでいて、少しでも安寧を与えたくて背中を柔らかく叩き続ける。体温の高い俺の温もりが伝わったのか、強張っていた体は少しずつ緩んでいく。きっともう眠いのだろう。先ほどから聞こえてくる声は舌足らずで覚束ない。

「ほらもう寝ろ」
「うん…つきしまさん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

疲れているからか、すぐに寝息が聞こえてくる。あまりに密着していると寝苦しいだろうと少し間を開けようとしたが、ぎゅっと寝間着の胸元が握られていて離すに離せない。そんなに力を入れずとも、いなくなったりしないのに。上から手を握ってやり、自分も寝ようと目を閉ざす。
明日は少し早く起きて、朝飯に握り飯をこさえてやろう。朝からしっかり食べれば、きっと一日がんばれるだろうから。



200203